俺のブログではアニメ語りを過去幾度となくやってきていて、この手の記事も上げては消しを繰り返している。なぜこのタイミングでまた同じことをやるかというと、ついこの前「涼宮ハルヒ」シリーズを見返して、このアニメまじおもしれーな。これを超えるアニメって存在しなくね?と思ってのことだ。今の俺はハルヒこそアニメの頂点であるというマインドにある。

2006年に初放送。2009年に新エピソードを加えた再編成版が放送され、その翌年に劇場版「消失」が公開されたらしい。
俺がハルヒを初めて見たのがいつなのか、正確には覚えていないが、中学生のときテレビで再放送が組まれていた記憶があり、その当時既に俺はハルヒを全話視聴済みだったはずだ。(調べると2017年春にNHKで放送されていた)同級生たちがそれきっかけにハルヒの存在に気付き、それを横目に「ああ、今更知ったの」と嘲笑していたのが俺だ。俺が未来で冷笑文化にどっぷり浸かっているのは、この規定事項があってのことなのだろう。
涼宮ハルヒの憂鬱はSF作品である。しかし、ハルヒという作品を形容する言葉が他にないから暫定としてSFに位置しているだけで、正確にはSFではない。定義にもよるが、SFとは“サイエンス”・フィクションの略であり、物語の世界にふしぎな事が起こり、その事柄には理屈があって科学的に説明が付くものだ。
ハルヒの世界でもたくさんのふしぎな現象が巻き起こる。しかしそれらは現代の科学では全く説明の付かないものであり、だが、それでいてファンタジーと呼ばれる魔法的概念でもない。ハルヒの世界にあり、現実世界にはない理論によって説明がされているのだ。例として、未来人による時間遡行については、言語では説明・理解共に不可能な原理とされ、時間の概念すらも、相対性理論ではなく時間平面理論という架空の理論で構築されている。この仕組みが、この手の作品に必ず湧いて出てくる考察厨の標的になりやすい話題へのメタとしてとても有効に機能している。そして考察厨に考察させないことが、この作品への没入感を高めている。何故なら作品内で涼宮ハルヒという人間を考察している勢力たちもまた、「涼宮ハルヒ自身が発生させたであろう次元断層によって、世界のプロローグともいえる3年前の時空震の調査ができなくなっている」という設定で、考察メタをくらっているからだ。難解に思える世界設定を持ちつつ、不明なものはそのままで良いと肯定してくれる絶妙なバランス感覚が、心地よい浮遊感を与えてくれる。更にそこに萌え萌え青春ラブコメ要素も盛り込まれている訳だから、ハルヒこそアニメの頂点に相応しい。そうに決まってる。











